「来ないで!」
女は悲鳴を上げた。
暗がりの部屋にそれは居た。窓から照らされる月明かりで、それが激しく運動をしている黒光りしたものであることが分かった。女はそれに触れられた時を思い出して身震いした。ましてや、服の中に入り込んで来たり、身体の中に入って来たらと思うと頭の中が真っ白になった。
彼女はそれを目の当たりにした拍子にペタリと床に腰を落してしまっていた。今もこちらの様子を窺いながら、頻りと動いているものから逃れようと、乱れた浴衣の裾を隠しながら後退りしたが、日頃の綺麗好きが祟ったのか、ワックスが効いた床は焦る彼女の後退を無慈悲に阻止していた。
思い通りに行かない苛立ちと真夏の夜に手元が滑り、何度も横たわってしまった。逃げ惑う彼女の鼓動は高鳴り、掻いた汗は首から胸元をひんやりと伝わっていた。
「嫌!近寄らないで」
前後に激しく動きまわり、細長く、硬い黒いものは彼女の気持ちを嘲笑うかのように彼女の家の中で本能の赴くままに我が物顔で振舞っていた。
-数時間前-
暖気に浮かんだ大きなものが鮮やかなざらざらとした甘い色で染められて、逃げ出してしまわないように地上で作られた半透明の袋に包まれて並んでいた。歩きながらでも食べられる味付けの濃い軽食などは大人を上機嫌にする小麦色の魔法の水を勧めた。
今夜は夏祭だった。
法被姿の老若男女が太鼓をトントントントン、トトントトーンと演舞し、催し物会場では高くなっている舞台上で所狭しと跳ね回る芸人が喜劇をし、皆が腹を抱えて笑っていた。女は方々を見て周り、楽しい時を過ごしていた。
「これやってみない?」
女は一緒に来た友達に言った。
「どれが良いかな?」
広い台の上に置かれたいろいろな景品には細長く白い紐が付けられていて、どれがどう繋がっているのかは布が被さっていて分からないようになっていた。
「よし、これがいいわ」
彼女は可愛らしい柄のよく弾みそうな丸い水ヨーヨーを見て、人数分の代金をお店の人に払った。
「3人分でいいの?」
ひとりが女の方を見て言った。
「え、何でよ。私達、3人じゃない」
「だって、2つ必要なんじゃない?」
友達は彼女の胸を見て、指を指して、方目を瞑る仕草をしながら言った。
「いやね。間に合ってるわよ」
「ほんとに?」
「ポヨン、ポヨーンて弾むのって気持ち良く無い?でも、二刀流なんて出来ないわね。じゃ、いっせーのせっ」
女が紐を引張るとその先には金色の紙が貼られている銅版が付いていた。
「何これ?」
唖然と見ていると、ベルが鳴りながら叫び声がした。
「大当たり!特等」
「え?」
「はら、姉ちゃん。これが品物だ。今話題の最高級品の杖だぞ」
「杖って何?私、まだお婆ちゃんじゃないわよ」
「知らないのかい?この界隈では最強の戦士に成れる強力な武器なんだぞ」
「別に私は戦士じゃないしぃ」
店番のおじさんは腕の長さよりも長い棒を渡すと、手を叩いて、次の客引きを始めた。
「まあまあ、折角当たったんだから、貰っときなよ。痴漢の撃退によくない?」
「そうかな?」
夜も深まる頃、彼女は皆と分かれて、帰宅の途に就いた。
彼女の家は木々に囲まれた郊外にあった。
玄関を開け、自分には不似合いな物を脇に立て掛けて置くと真直ぐに廊下を台所の方へ向かった。

壁にある電灯のスイッチを入れようとした時に物が動く微かな音に気付いた。
彼女の脳裏にはそれに関わった汚らわしい記憶が蘇り、明かりをつけるのを躊躇っていると、月明かりに照らされてそれは姿を現した。
「来ないで!」
黒光りするものは彼女を追いかけてくる様子も無く、台所で頻りに自分の欲望を満たすものを探し回っているようだった。彼女は無我夢中で玄関まで逃げ戻ると、先程、立て掛けて置いた最高級品の杖を手にすると台所まで勇気を振り絞って戻った。彼女は杖を構えると電灯のスイッチを入れた。
「えい!やー!」
杖を振り回し、必死で黒光りするものを撃退しようと試みたが、それは物陰から物陰へと素早い動きで動き回り、彼女の攻撃をかわし続けていた。業を煮やした彼女は一度電灯を消し、立ち去った振りをして、数秒後に再び、電灯をつけた。素早い目配りで黒光りするものを探すと、数メートル離れた床にそれは居た。数回の連打の後に見事に最強の杖は的を床に叩きつけた。
『グシャリ』
硬い甲冑は粉砕され、体液が滲み出ると黒光りする細長いものは動きを止めた。
彼女は数十枚のティッシュを重ねると、それの亡骸の感触を感じないようにそっと床から拾い上げると、ゴミ箱に捨てた。
「嗚呼、気持ち悪い。ゴ〇ブリだわ」
Lycoギルチャ、夏の怖い話より
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まだ少女の面影が残っている彼女はすらりとした肌を露わにした服を着ていた。肉付きが良い胸やお尻は熟れた果実を連想させ、魅力を感じさせずにはいられない端正な容姿で、男の視線を感じるのは日常茶飯事であった。腰まで伸ばした銀髪が際立って人目を惹くその妖精はこの土地に長く暮らしていて、環境や風習に慣れ親しんでいた。ある日、特殊な魔法を使って、涼しげな水色でラッピングされた声を皆に送った。
「ねえ、ムキムキ君のところに遊びに行かない?」
今夜、彼女は自分でも思いもよらない感情が混じった悪戯心に取り憑かれていた。ひとりだけでは退屈だと思い、仲間を呼んで、時々、衝動的に駆られる筋肉質な如何にも強そうな男が弱っていく様を堪能することを思い付いたのである。
バイオレットのショートカットの女は何をするのか分からなかったが、妖精の誘いに二つ返事で答えた。もうひとりの真紅のロングドレスを着た女は目を輝かせながら、灰色にエメラルドグリーンの細い横縞の小さな仮面を被って、にやりと微笑んだ。
「行こう、行こう」
「パティーの始まりだ」
彼女達は妖精がある掲示板に書き込んだ募集を見て集まって来たそれぞれ異なった能力を持つ多種族であり、少人数ながらもギルドを結成して助け合っていた。普段は別々に行動をしているが、時折、こうして誘い合って、一緒に出掛けることが度々あった。
「あ、待って。私達だけだとムキムキ君が暴れだしたら面倒だから・・・」
「例の一族?」
「ええ。誘ってみるわ」
銀髪の女は他の者が聞くことが出来ない専用のフィルターの掛かった回線のような魔法で、遠方にいるであろう例の一族に声を掛けた。彼らはあまり体験したことが無いらしかったが、興味津々の様子で、二つ返事で行動を共にすることになった。一同はムキムキ君の棲家の洞窟付近で待ち合わせることにして会話を切った。
彼女は町にあるプライベートの金庫にしまってあるムキムキ君を呼び出す〝鍵〟と呼ばれているものを取り出した。
「これで準備が整ったわ。さて、ゲームの始まり、始まり」
これから起きる出来事に期待を膨らませて、二重瞼で大きな目を見開らいて、笑みを溢した。
妖精が待ち合わせの場所に到着すると例の一族だけが遅れているようであったが、まもなくして、集団は姿を現した。全員が揃ったことを確認した真紅のドレスの女は抑えていたものが解放されたようで、一目散に洞窟へと向かう急坂を駆け上って行った。
「あ、待ってよ」
それを見た他の者も彼女に従って走り出した。
洞窟内に入ると蜘蛛の巣が至る所に天上から張り巡らされ、幾つかの広いスペースに区切られていた。そこには贅肉だらけの巨大な怪物達が通路や部屋に本能的なものを求めて彷徨っていた。弱い者だったら忽ち行く手を阻まれたであろうが、彼女達の力はそれらを大きく上回っていた為に何事も起きなかった。突然、真紅のドレスの女は短剣を抜き、無言で、無表情ではあるが心の中では『キャー、ハッハッハーァ』と叫び声をあげて、怪物達に斬りかかりながら前進して行った。妖精はその女に残忍さを感じながらも自分も抱く同様のエクスタシーに身震いした。
「ちっ、先を越されたか。仕方ない、別の場所に行こう」
目的の部屋に辿り着くと、今夜、同じことを思い付いた者がいるらしく、そこにムキムキ君は居なかった。
「待って」
仮面の女が先導して立ち去ろうとすると、妖精は彼女達を引き止めた。
「準備は良いかしら?ムキムキ君を召還するわよ」
彼女は出掛けに持ち出してきた鍵をカバンから取り出すと、地面に置かれている幾つかの小さい銅像の一つにそれをかざした。すると、彼女の背丈の倍以上はある鍛え抜かれ、引き締まった筋肉を持つ巨躯な怪物が眠りから醒めたように静かに姿を現した。上半身裸の姿は見るだけでも妖精を十分満足させたが、左手で怪物の胸に軽く触れ、ゆっくりと指でなぞり、獲物の品定めをした。硬く分厚い胸板は頭に降り掛かる生温かい息遣いと同調して僅かに揺れ、逞しく盛り上った腕の筋肉は彼女の身体を軽々と持ち上げて、意図も無く我がものにしそうであった。数秒後、振り返り、怪物に背中を見せると、ゆっくりと皆の方に向かって歩き始めた。そして、指を鳴らして合図した。
「さあ、今夜の獲物よ」
例の一族のひとりの男がムキムキ君目掛けて攻撃を仕掛けた。ショートカットの女は何をして良いのか分からずに贅肉だらけの怪物と戯れていたが、妖精に指を指されて、向かうべき相手を理解した。
妖精は安全の為に両者にバリアーを与えながら、その様子をじっくりと観察していた。仮面の女は自分には役不足な相手と判断すると妖精に倣って傍観していたが、それに飽きると贅肉だらけに斬りつけて、自らの欲求を満たしていた。今夜の獲物は2人の為に用意されたようなものであった。
男と女は一心不乱に筋肉隆々のムキムキ君と格闘をしていた。一族の男は大きな身体に不釣合いな短剣を素早い動きで斬りつけていたが、規則的に足を振り上げては地面に叩きつけると、大きな地響きと共に周囲にいた贅肉だらけの怪物もろとも衝撃波を浴びせかけて威嚇していた。一方、バイオレットの女は左右に細長い剣を薙ぎ払い、勢いよく跳び跳ねると剣を突き立てて串刺しにしようとしていた。
「フンッ」
「ハァ、ハァ」
攻撃の際に発せられる互いの武器の交じり合う重く甲高い金属音と2人の掛け声が静かな洞窟内に木霊していた。
渾身の力で攻撃しても、攻撃しても一行に弱らない2人にムキムキ君は焦りを感じているようであった。彼、そう、元彼であったムキムキ君の呼び名は〝堕落した魂の守護者〟。強さに取り憑かれ、その欲望を満たす為に悪魔と契約を交わし、強さと引き換えに魂を売った男だった。
「ガォー!」
時折、ムキムキ君の怒号と共に繰り出される攻撃が2人を何度か金縛りにさせた。

「押さえ込まれちゃってるじゃない」
見兼ねた妖精は例の一族の長に古より伝わる暴れし者を手懐ける秘策をそっと耳打ちした。長は何のことか分からなかったが半信半疑で彼女の指示に従うことにした。
「やー!」
たった1度の攻撃でムキムキ君の怒号は収まり、巨大な矛を振り回すだけの木偶の坊に成り下がった。
強靭な肉体を持つ大男は休むことなく格闘を続けていたが、バイオレットの女はムキムキ君の底無しの体力に少々閉口して来た。怪物の相手を男に任せ、少し手を休めると、リラックスの為に軽く手足を伸ばした。その妖艶な仕草は初めて知る快楽に酔いしれているようであった。
「ふふふ・・・さあ、お前の持っている全ての物を私達に差し出しなさい」
妖精はムキムキ君が盲滅法に暴れ周り、徐々に弱り果てて行く姿を見ながら呟いた。
そして、もうひとつの喜びの時が来る日を待ち望んでいる。
南の地にある穏やかな国ヴィア・マレア。
其処の北に位置する運命の分かれ道に“マレアの神殿”はある。

誰も手を出すことの出来ない絶壁に据え置かれた巨大な石像を私は小高い丘から見つめていた。
陸翔の行方は未だに不明である。
武官である父に北方の国の情報を集めてもらうようにお願いしてみたものの個人の行方など分るはずもなかった。彼のご両親はエルス港に開業している有名な探偵を雇ったらしいけど、そちらからも何の手掛かりも掴めないままだった。
私は神にでもすがる気持ちで此処に脚を運んでみたものの今の私を救ってくれる神などいるわけも無かった。
(どうか私に彼を探す知恵を授けてください)
平和と知恵を愛する女神は無言で遥か彼方の東の空を見つめていた。
「お姉さん」
後から声を掛けられて振り返ると、そこには長い赤髪を後ろでひとつ、両サイドにふたつに結び、キュロットを穿いた如何にも活発そうな少女が立っていた。
「鮎美ちゃん」
「こんな場所で会うなんて偶然だわ」
「まだお姉さんは早いわ」
「佳穂さんは兄貴のフィアンセなんだもの。『お姉さん』って呼ぶのが普通でしょ?」
「それはそれで嬉しいんだけど、何だかこそばゆいわ。私、末娘だからお姉さんらしくないでしょ?」
「そんなことないです。私、妹しかいないからずっとお姉さんが欲しかったんです」
「妹?」
「ええ、私の下に年が離れて妹と弟がいるんです」
「私はてっきり陸翔と鮎美ちゃんの2人兄妹だと思ってたわ」
「妹の名前が“かほ”って言うんですよ。果実がすくすく育つようにって、果実の果と歩くを付けたみたいなんですけどね」
「そうだったの」
「だから、“かほさん”って呼び難いんです」
「それはそうかもね。陸翔は私のことを“かほ”って呼ぶけど、どう言い分けてるのかしら?」
「兄貴は果歩のことは“チビ娘”ですね」
「まあ」
「でも、私の名前は手抜きっぽい感じがしません?」
「・・・」
「パパに聞いたら、丁度その時に鮎が食べたかったから付けたんですって。失礼しちゃいますよね。だけど、2番目の子は女の子が欲しかったみたいで、私が生まれた時は両親とも凄く喜んでくれたみたいなんです。それにしても、兄貴そんな話もフィアンセにしてなかったんですか?」
「ええ。でも、何度も陸翔の家に行ったけど2人共いなかったじゃない」
「お姉さん達が来るのはいつも夜半だから。小さい子供は奥で寝てますよ」
「それでお母さまが偶にお話の途中でいなくなったりしていたのね」
「ええ。弟の面倒をみに行ったんだと思います。やっと立って歩くようになったばかりですから」
私の知らなかった彼の家族構成に少し驚いていると彼女は話を続けた。
「ほんと、兄貴はダメですよね」
「え?」
「ルックス、頭はそこそこ良いんですけど、肝心なところが少し抜けていると言うか何と言うかですよ」
「ふふ。そう言われるとそうかもね」
私達が小高い丘で立ち話をしていると、いつの間にか辺りは薄暗くなった。ポツリ、ポツリとコートの上に小粒の雨が当たった。
「お姉さん、こっち、こっち」
彼女は私に近くのマレアの神殿で雨宿りをしようと手招きした。
周囲を細長い屋根で囲まれた場所まで辿り着くと今までの青空が嘘のようにすっかり空は雨雲に覆われてしまっていた。
直ぐに雨脚は強まり、横殴りにザアー、ザアーと激しく降り注いだ。
ピカーッ!
ゴロゴロゴローン!
「きゃあ」
南方の海上の上空の方で眩い閃光を放ち、轟音を立てた雷鳴に思わず悲鳴をあげた。彼女は私の腕を掴んでびくびくしながら尚も叫び声をあげた。
「雷、嫌い!」
「大丈夫よ。鮎美ちゃん」
ピカーッ!
「ねえ・・・何か・・・何かお話して」
「そうね。お話と言うよりも聞かせて」
私は話を聞くよりも自分で話していた方が集中すると思い質問をすることにした。
「なにを・・・です・・・か」
「鮎美ちゃん、好きな人いないの?」
「えっ?」
「ほらほら、白状しちゃいなさい。そうしないと雷がなるわよ」
「いやん」
彼女は照れ臭そうに少しもじもじしていた。
「彼氏とかはいないの?」
「えっと、今は彼氏はいないんだけど、気になる人なら・・・」
「どんな人?」
「どんなって。兄貴に輪をかけたような朴念仁」
「あら、陸翔は朴念仁じゃないわよ」
「そうかなあ。一緒に暮らしていると無愛想ですよ。私が言うことなんかうわの空で聞いてるのか聞いてないのか分らない感じの時とかよくあるもの」
「そうなのかしら?で、その人は?」
「何か気になるんです。いつも調べごとばかりしていて。無愛想で、上から目線なんだけど、偶に私のことを褒めたりしてくれるんです」
「先輩とか?」
「ううん。探偵さん」
「ドノバンさん?」
「えっ何で分っちゃうんです?」
「探偵と言ったらあの人ぐらいしかいないでしょ?」
「あ、そうか」
「でも、ドノバンさんって随分年輩みたいだけど、どうやって知り合ったの?」
「私が小さい子供の頃に家族でエルスにお買い物に行ったんだけど、その時に迷子になっちゃった私の面倒をみてくれたのが始まりなの。それから遊びに行くようになって」
「ははん。初恋っていうやつね」
「えっ。そんなんじゃないです。普通に同年齢の男子に初恋はしたし。でも、最近は若い男子って虚栄心ばかり目立って。物足りなくなっちゃって」
「そうね。そういうのはあるかもしれないわ」
「私ね、探偵のバッチを持ってるんですよ」
「バッチ?」
「うん。偶にドノバンさんのお仕事のお手伝いをするんですけど、頑張った時は金色のバッチをくれるんです。だから、探偵のいろはくらいは知っているんです。兄貴のことも直ぐにでも探しに行きたいんだけど、ドノバンさんが『闇雲に探しても仕方ないから、もう少し確かな情報があるまで待ちなさい』って言うんです」
「そう」
「ねえ、お姉さん」
「なに?」
「アナザーワールドって知ってます?」
「テーマパークの?行ったことはないけど」
「ねえ、兄貴が戻ってきたら一緒に行ってくれません?私、タダ券を持ってるんです」
「ええ、良いけど」
「良かった。これで彼も誘えるわ」
「え?」
「・・・」
「あ、私達をデートのダシに使うつもりね」
「えへへ。だって、何か・・・照れるんだもの」
「はいはい。現地では別行動ね。了解、了解」
「別にそんなんじゃないです」
「照れるな、照れるな。恋せよ乙女」
私達が話に夢中になっていると、いつの間にか雨雲が去り、遠くの空はその本来の青さを垣間見せていた。
チュンチュン。
チュンチュン。
早起きの小鳥の囀りで私は目を覚ました。旅の疲れはまだ残っていたけど、ベッドから起き上り、シェードを上げて出窓を開けた。
遥か彼方まで続くコバルトブルーの空に真っ白な雲たちが地上より舞い上がった悪戯で冷ややかな風に流されてさわさわと模様を付けていた。
目覚めたばかりの目に眩い七色の光線を放つ太陽と冷たい空気がそこにはあった。
「おはよう」
笑顔で私に手を振りフェスタが呼び掛けてきた。
私達の中でいつも世話役のしっかり者で生真面目な彼女はセミロングの銀髪の後を清楚に結上げている。
「おはよう」
「ねえ、どうだったの?」
「うん、現状調査でひと回りしただけの旅だから直ぐに終わったわ」
「そっちじゃないよ、陸翔先輩のこと。ドラットに行って来たんでしょ?」
「・・・」
「そっか、手掛かり無しか。でも、きっと先輩は大丈夫だよ」
「ええ、私も信じてる」
「うんうん」
彼女は笑って私を元気付けてくれた。
「おっはよう」
そこにあわてんぼうのセーラーが白いショルダーバックを腰元でポンポンと弾ませながら大股で走って来た。
「ねえねえ、レポート調査に託けて陸翔先輩を探しに行って来たんでしょ。行方は分ったの?」
「それが、手掛かりは掴めなかったんだって」
私を見つけたセーラーの問い掛けにフェスタが答えた。
「やっぱり、これは浮気よ」
「!?」
「旅先で知り合った絶世の美女との仮初の愛。結婚を間近に向かえたマリッジブルーがなせる揺れ動く男心。これは結婚という男の墓場に落ちて行く前のほんのお遊びなのかもしれないぞ」
「陸翔は浮気なんかしません!」
私は眉間に皺を寄せ、彼女を睨み付けて言い放った。
「そうかな、先輩だって男だよ。浮気しない男っていないって言うよ」
「しないの!」
「セーラー!きつ過ぎ」
「あん、怒っちゃ嫌よ。冗談なんだから」
「もう」
「思い起こせば、2年前のバレンタインデー」
彼女は私達から視線を逸らして下を向き、振り返りながら腕を組んで話し始めた。
「セーラー、またその話?」
「また?そうだっけ?1回くらいしか話してない気がするけどなあ」
「フィアンセの前でよく話すわ」
「良いじゃない。2人は相思相愛。今や自信過剰の似た者カップルの間には蟻の這い出る隙もないんだから。それに佳穂がヴェーナに来る前の話じゃない」
「え?」
彼女自身から陸翔のことが好きだった時があったことは以前から聞いていたけど、特に違和感は抱いていなかった。私と陸翔が出会う前の話しだし、女にもてるのは男の勲章のようなものだと理解している。意外だったのは自信過剰の一言だった。
「ああ、陸翔先輩への切ない恋の病に侵された女心に勇気を振り起し、一世一代の決意をして作った力作〝手作りらぶらぶチョコ〟をぶら下げて、あの日、告白という手段にでた私に言い渡された結末は敢え無くも玉砕。間髪いれずに言い渡された『ごめん』の一言は悲しかったわ。チョコすら受け取ってもらえなかったもの。例えるなら、空腹に耐え忍び、延々と深夜遅くまで続く講義がやっと終了。あの耐え難い空腹感を満たす為に必死に駆け足でお店に辿り着いたその瞬間にシャッター、ガラガラ。『はい、閉店です』それまでって感じよ」
「何それ?でも、あのチョコ、美味しかったよね」
「そう?私、食べてないもの」
「そりゃ、そうよ。私の所に来て、『こんなの要らない!』とか言って、私に投げつけて、一晩中、泣きじゃくって明かしたじゃない」
「ずるい、フェスタ。自分だけ空腹を満たしていたのね」
「でも、翌日にはケロッとしてたじゃない」
「そんなことないよ。一月以上引きずっていたもの」
「そうだったんだ」
「あ!大変。遅刻、遅刻。講義に遅れちゃう。じゃ、またね」
彼女はいつもこんな調子で駆け抜けて行く。
「セーラーは根は優しいんだけど相変わらず毒舌よね。でも、ああやって気を紛らわしてくれるんだよね」
「ええ、私もそう思うわ。陸翔のことだから大丈夫だとは思うんだけど・・・」
「クシュン♪あれ、誰か私の噂でもしてるのかな?」
「あは。走りながらくしゃみしてる人って初めて見たわ」
セーラーの後姿を見ながらフェスタはそう言った。
「ところで、リリアは?一緒にリマに行ったんだけど、途中で分かれたのよ」
「リリアなら昨日帰って来て、早速やってるわよ」
「あのリリアがね」
「違う、違う」
「え、レポートの整理じゃないの?」
「いつものあれよ、あれ」
ドゴーン♪
各部屋に仕切られた訓練場に行くとけたたましい音と共にリリアの掛声が聞こえた。彼女は武術優待生として入学してきて、1学年にして既にアカデミーでは有名人物であった。数々の模範試合での優勝も然ることながら、彼女のざっくばらんな性格は誰からも慕われるところがあった。

「あ、来てたんだ」
リリアは部屋の入口で見学をしていた私を見つけると声を掛けて近づいて来た。
「相変わらず、激しい訓練をしているのね」
「何言ってるのよ。こんなの訓練にならないよ。1学年だから制限が設けられていて、こんな相手の部屋しか許可されて無いんだもの。早く上級コースに行きたいわ」
「そ、そうね。リリアには物足りないのかもね」
彼女は汗ひとつかいた様子も無く話を続けた。
「ねえ、久し振りに相手してくれない?」
「わ、私?」
「そう、佳穂さまにお願いしてるのよ」
「私はダメよ。武術優待生のリリアに敵うわけないじゃないの」
「10勝11敗」
「何それ?」
「私と佳穂の対戦成績よ。私が負け越しているわ」
「ちょっとそれ何時の話よ。子供の頃の模範試合のことじゃないの?」
武官である父は“例え女でも護身術のひとつも身に付けねばならない”という理由で地方の武術大会に私を出させていた。幼少より各地を転々と周り、主要な武術大会に出場していたリリアとは何度か対戦をしたこともあり、フェスタやセーラーとこのヴェーナで知り合うより以前からの友達だった。
「逃げるの?」
「うん、逃げる」
「全く、神学科の人って何で皆こうなんだろ」
「どうして?」
「だって、私、入学早々のお遊び半分の非公式の模範試合で陸翔先輩に負けたのよ。神学専攻の優男だと思ったらとんでもない。何であんなに強い人が神学専攻なんだか全然分らないよ。武術優待生の名折れだわ。これはもう『神のみぞ知る』ってことなのかな。佳穂だってまだまだいけるんでしょ?」
「ううん、そんなことない。将来の将軍さまと噂されるリリアさまの足元にも及ばないわ」
「もう、恋する乙女はこれだから」
「それどういう意味?」
「言葉通りよ」
公式試合で最初に勝ったのは確か私だったと思う。それまで無敗だった彼女にとっては衝撃が強かったらしく、試合の翌日にはリターンマッチと言って私の家に押し掛けて来たりした。そんな彼女と数年前までは会う度に服が汚れることも気にせずに稽古をしていたものだった。
「佳穂は直ぐに立ち去っちゃったけど、私は方々を見て周ったの。南部って本当に可愛い建物が並んでてさ。そこに苺ジャムのお店があってね。自分でイチゴ畑で摘んだ苺をその場でジャムにしてくれるのよ。焼きたてのパンに付けて食べる苺ジャムは美味しかったな。リマは苺狩りとかで有名じゃない。そうそう、それからね。ランベックには佳穂が好きそうなアクセサリーショップとかもたくさんあったわよ。ねえねえ、今度またのんびりと一緒にリマに行こうよ」
「う、うん」
「なあに、陸翔先輩のこと?」
「・・・」
「大丈夫よ。先輩は。私ですら敵わないくらい強いんだから」
「そうね。リリアなら1個小隊くらいは1人で相手に出来そうだものね」
「それ、どういう意味?」
「女傑?」
「はいはい。どうせ私の恋人はこちらにいます訓練用のロボットですよぉ」
「・・・」
一瞬、会話が途切れて現実の世界に戻った私の心中を察したリリアは私の手を握った。
「佳穂・・・」
私は優しいリリアに凭れ掛かり、彼女の胸元に顔を埋めて濡らしていた。
昔からの親友にだけ見せられる姿だった。
夕暮れ時の大通りの繁華街を1人で歩いていた。
帰宅するにはまだ早く、1人で入るお店も見当たらない。
私は狭い小道に入るとその奥に小さな看板が掲げられているショットバーを見つけた。
小さなドアを開いて店内に入ると、薄暗く狭い空間にはカウンターとその前に並べられた高脚の丸い椅子があった。
椅子の台に爪先を乗せて椅子に座ると、今まで私を支えていた脚は解放されて自由のみになった。
私は脚を組み、両肘をカウンターについて手を合わせると、チョッキ姿のバーテンさんにお酒とツマミを注文した。
私はお友達にメールを送信する。
誰か暇人はいないかしら?
暫くすると目の前に細長いグラスとピーナッツが差し出された。
右手でグラスを掴み、軽く一口、口に含ませた。よく冷やされた爽やかな喉ごしに魔法の薬が混ぜ合わさったドリンクは私に人心地付かせた。左手で小皿に盛られた数種類のピーナッツを口の中にポンと投げやる。頬張り終わると、またドリンクを飲む。
チリンチリーン。
店のドアが開き、別のお客さんが入って来た。
コツコツコツ。
彼は無言で私の隣の椅子に座ると何やら注文を重ねた。
ここはショットバー。
1、2杯お酒を飲んで、飲み終わればさっとお店を出て行くほんのつかの間の場所。
誰に気兼ねをすることもない。
彼は注文した品が出て来るまで暇をもてあましたらしく、私に話掛けて来た。
「新顔さんですね?ここは初めてですか?」
「ええ」
「僕は偶にここには立ち寄るんですよ」
「そう」
「こういうところには良く来るの?」
「ええ、偶に」
私は視線を逸らして、置いてあったグラスを手に取り、彼に横顔を見せてお酒を飲んだ。
「あ、ごめんなさい。まだ貴方のお酒がありませんでしたね」
シェーカーの軽快な音が鳴り終わり、バーテンさんが彼に三角形のグラスに注がれたお酒を差し出した。
「乾杯してもらっても良いですか?」
「ええ、良いですよ。でも、何に?」
「そうだな。貴女に」
「じゃ、私は貴方に」
カシャン。
薄いガラス製のグラスが綺麗な音色を立てた。
「良かったら、ピーナッツを食べませんか?注文したんだけど少し量が多くて」
「あはは。そうかもしれませんね。ここのマスターは気前が良いですから。じゃ、遠慮無く頂きます」
カウンターの片隅でマスターは洗い物をしながら微笑んでいた。
「そうだ、夕食はもう済ませましたか?」
「え?」
「あ、いえ。まだでしたら、一緒にどうかと思って」
「はあ」
「近くに美味しいお店があるんですよ。」
「・・・」
「初対面じゃ。行き難いですよね」
メールの返信はまだ誰からも来ない。
今夜の予定があるわけでもなし・・・。
「いえ、ご一緒させて下さい」
「本当ですか!じゃ、早速行きましょう」
彼はグラスに残っていたお酒を一気に飲み干すと私をエスコートしてショットバーを出た。
残されたのは私の飲みかけのグラスとピーナッツが数個だけ・・・。
彼が案内してくれたのは静かな曲が流れている大人のムードが漂うダイニングバー。
仄かな薄明かりが天井のスポットライトから店内を照らしていた。テーブルの横に置かれたオレンジ色のスタンドライトが手元を明るく照らしていて、近寄らなければ相手の顔がよく見えない。男女連れのカップルということで店員さんが気遣ってくれたようである。時折、離れた場所から人々の話し声やら、笑い声が聞こえていたが店内の端に席を用意してくれた。私は魚料理をメインに前菜と白ワイン、それとデザートを、彼は肉料理を注文した。
「あの、お名前は?」
私は相手の名前を聞いていなかったことに気付いて訪ねてみた。
「そう言えば、自己紹介をしていませんでしたね」
「私は佳穂」
「僕は大林と言います。アパレル関係の仕事をしているんです」
「アパレル?デザイナーさん?」
「いえいえ、売り歩くんですよ」
「あ、なるほど」
「あれ?佳穂さんってどこかで聞いたような・・・」
「きっと、ありふれた名前なんですね」
彼の身嗜みがしっかりして、好感が持てたのはそういうお仕事をしているからだと納得した。
前菜を食べながら、彼は話を始めた。
「僕、R.O.H.A.Nってオンゲーをやっているんです」
「オンゲー?」
「オンラインで遊べるゲームのことです。数年前からやっているんですけど、やり始めるとなかなかはまるんですよ」
「まあ、そんなに面白いんですか?」
「ええ、偶にしかやらないのでなかなか先には進まないんですけど」
私はショットバーで飲んだアルコールもすっかり醒めていて、初めて聞く彼の話に会話を合わせた。
「ゲームの中で自分のキャラクターの装備を作っていくんですけどね。これが凄く大変なんですよ」
「ああ、だから長続きするのかしら?」
「どうなんだろ?その中に自分で防具を一から作ることが出来るのがあるんですけどね」
「防具?」
「まあ、日常生活だと服なんでしょうね」
「大林さんのお仕事と一緒ですね」
「あ、そうかもしれません」
私はグラスワインを飲んで口の中を潤した。
彼はナイフで肉を切りながら、話を続ける。
食物を取る時に時折、相手の表情が窺える。
彼は食事と会話を楽しんでいるようである。
私も初めて聞くお話に耳を傾ける。
「生産防具っていうのがあるんですけど、周りの人はあまり作らないんですよ」
「あら、何故かしら?デザインが良くない?」
「ははは。デザインというより性能なんでしょうね」
「性能?」
「ええ、他にも防具があって皆はそっちを作ったり、ゲーム内で買ったりするんです」
「・・・」
「性能はそっちと同じなのにそっちを作る素材を何個も作って、やっと作れたとしても定期的にメンテナンスをしないといけないのが生産防具なんです」
「メンテナンス?洋服だとアイロンを掛けたり、クリーニングに出したりかしら?」
「そ、そうですね。面白いことを言うな。今まで考えてもみませんでしたよ」
「スリーシーズンの服とかだと着こなし方もバリエーションがありますよね?ほら、ワンピだと上着を羽織ったり、中にジーンズを穿いたりとか。あ、アパレルでも紳士服専門ですか?婦人服では分り難かったかも」
「いえいえ、そんなことはありません」
「きっと、そんな洋服なんでしょうね。防具でしたっけ?」
「スリーシーズンの防具?」
「格好良いヒーローが戦う相手によっていろいろと変身したりとかするのを子供の頃にTVとかで見ませんでした?」
「ああ、見ました、見ました。1話で3タイプとか変身してくれるとその日は得した気分でしたよ」
「結婚式のお色直しみたいですね」

メインも食べ終わり、デザートが出された。
こんな時、恋人同士だったら甘い〇スでもするのかしら?
お店を出て彼に夕食に誘ってくれたお礼をして別れた。
またあのショットバーに行けば彼には会えるかも知れない。
夏の夜風が私のアルコールで火照った頬を冷してくれていた。
そろそろ、お家に帰ろうかな・・・。
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