チュンチュン。
チュンチュン。
早起きの小鳥の囀りで私は目を覚ました。旅の疲れはまだ残っていたけど、ベッドから起き上り、シェードを上げて出窓を開けた。
遥か彼方まで続くコバルトブルーの空に真っ白な雲たちが地上より舞い上がった悪戯で冷ややかな風に流されてさわさわと模様を付けていた。
目覚めたばかりの目に眩い七色の光線を放つ太陽と冷たい空気がそこにはあった。
「おはよう」
笑顔で私に手を振りフェスタが呼び掛けてきた。
私達の中でいつも世話役のしっかり者で生真面目な彼女はセミロングの銀髪の後を清楚に結上げている。
「おはよう」
「ねえ、どうだったの?」
「うん、現状調査でひと回りしただけの旅だから直ぐに終わったわ」
「そっちじゃないよ、陸翔先輩のこと。ドラットに行って来たんでしょ?」
「・・・」
「そっか、手掛かり無しか。でも、きっと先輩は大丈夫だよ」
「ええ、私も信じてる」
「うんうん」
彼女は笑って私を元気付けてくれた。
「おっはよう」
そこにあわてんぼうのセーラーが白いショルダーバックを腰元でポンポンと弾ませながら大股で走って来た。
「ねえねえ、レポート調査に託けて陸翔先輩を探しに行って来たんでしょ。行方は分ったの?」
「それが、手掛かりは掴めなかったんだって」
私を見つけたセーラーの問い掛けにフェスタが答えた。
「やっぱり、これは浮気よ」
「!?」
「旅先で知り合った絶世の美女との仮初の愛。結婚を間近に向かえたマリッジブルーがなせる揺れ動く男心。これは結婚という男の墓場に落ちて行く前のほんのお遊びなのかもしれないぞ」
「陸翔は浮気なんかしません!」
私は眉間に皺を寄せ、彼女を睨み付けて言い放った。
「そうかな、先輩だって男だよ。浮気しない男っていないって言うよ」
「しないの!」
「セーラー!きつ過ぎ」
「あん、怒っちゃ嫌よ。冗談なんだから」
「もう」
「思い起こせば、2年前のバレンタインデー」
彼女は私達から視線を逸らして下を向き、振り返りながら腕を組んで話し始めた。
「セーラー、またその話?」
「また?そうだっけ?1回くらいしか話してない気がするけどなあ」
「フィアンセの前でよく話すわ」
「良いじゃない。2人は相思相愛。今や自信過剰の似た者カップルの間には蟻の這い出る隙もないんだから。それに佳穂がヴェーナに来る前の話じゃない」
「え?」
彼女自身から陸翔のことが好きだった時があったことは以前から聞いていたけど、特に違和感は抱いていなかった。私と陸翔が出会う前の話しだし、女にもてるのは男の勲章のようなものだと理解している。意外だったのは自信過剰の一言だった。
「ああ、陸翔先輩への切ない恋の病に侵された女心に勇気を振り起し、一世一代の決意をして作った力作〝手作りらぶらぶチョコ〟をぶら下げて、あの日、告白という手段にでた私に言い渡された結末は敢え無くも玉砕。間髪いれずに言い渡された『ごめん』の一言は悲しかったわ。チョコすら受け取ってもらえなかったもの。例えるなら、空腹に耐え忍び、延々と深夜遅くまで続く講義がやっと終了。あの耐え難い空腹感を満たす為に必死に駆け足でお店に辿り着いたその瞬間にシャッター、ガラガラ。『はい、閉店です』それまでって感じよ」
「何それ?でも、あのチョコ、美味しかったよね」
「そう?私、食べてないもの」
「そりゃ、そうよ。私の所に来て、『こんなの要らない!』とか言って、私に投げつけて、一晩中、泣きじゃくって明かしたじゃない」
「ずるい、フェスタ。自分だけ空腹を満たしていたのね」
「でも、翌日にはケロッとしてたじゃない」
「そんなことないよ。一月以上引きずっていたもの」
「そうだったんだ」
「あ!大変。遅刻、遅刻。講義に遅れちゃう。じゃ、またね」
彼女はいつもこんな調子で駆け抜けて行く。
「セーラーは根は優しいんだけど相変わらず毒舌よね。でも、ああやって気を紛らわしてくれるんだよね」
「ええ、私もそう思うわ。陸翔のことだから大丈夫だとは思うんだけど・・・」
「クシュン♪あれ、誰か私の噂でもしてるのかな?」
「あは。走りながらくしゃみしてる人って初めて見たわ」
セーラーの後姿を見ながらフェスタはそう言った。
「ところで、リリアは?一緒にリマに行ったんだけど、途中で分かれたのよ」
「リリアなら昨日帰って来て、早速やってるわよ」
「あのリリアがね」
「違う、違う」
「え、レポートの整理じゃないの?」
「いつものあれよ、あれ」
ドゴーン♪
各部屋に仕切られた訓練場に行くとけたたましい音と共にリリアの掛声が聞こえた。彼女は武術優待生として入学してきて、1学年にして既にアカデミーでは有名人物であった。数々の模範試合での優勝も然ることながら、彼女のざっくばらんな性格は誰からも慕われるところがあった。

「あ、来てたんだ」
リリアは部屋の入口で見学をしていた私を見つけると声を掛けて近づいて来た。
「相変わらず、激しい訓練をしているのね」
「何言ってるのよ。こんなの訓練にならないよ。1学年だから制限が設けられていて、こんな相手の部屋しか許可されて無いんだもの。早く上級コースに行きたいわ」
「そ、そうね。リリアには物足りないのかもね」
彼女は汗ひとつかいた様子も無く話を続けた。
「ねえ、久し振りに相手してくれない?」
「わ、私?」
「そう、佳穂さまにお願いしてるのよ」
「私はダメよ。武術優待生のリリアに敵うわけないじゃないの」
「10勝11敗」
「何それ?」
「私と佳穂の対戦成績よ。私が負け越しているわ」
「ちょっとそれ何時の話よ。子供の頃の模範試合のことじゃないの?」
武官である父は“例え女でも護身術のひとつも身に付けねばならない”という理由で地方の武術大会に私を出させていた。幼少より各地を転々と周り、主要な武術大会に出場していたリリアとは何度か対戦をしたこともあり、フェスタやセーラーとこのヴェーナで知り合うより以前からの友達だった。
「逃げるの?」
「うん、逃げる」
「全く、神学科の人って何で皆こうなんだろ」
「どうして?」
「だって、私、入学早々のお遊び半分の非公式の模範試合で陸翔先輩に負けたのよ。神学専攻の優男だと思ったらとんでもない。何であんなに強い人が神学専攻なんだか全然分らないよ。武術優待生の名折れだわ。これはもう『神のみぞ知る』ってことなのかな。佳穂だってまだまだいけるんでしょ?」
「ううん、そんなことない。将来の将軍さまと噂されるリリアさまの足元にも及ばないわ」
「もう、恋する乙女はこれだから」
「それどういう意味?」
「言葉通りよ」
公式試合で最初に勝ったのは確か私だったと思う。それまで無敗だった彼女にとっては衝撃が強かったらしく、試合の翌日にはリターンマッチと言って私の家に押し掛けて来たりした。そんな彼女と数年前までは会う度に服が汚れることも気にせずに稽古をしていたものだった。
「佳穂は直ぐに立ち去っちゃったけど、私は方々を見て周ったの。南部って本当に可愛い建物が並んでてさ。そこに苺ジャムのお店があってね。自分でイチゴ畑で摘んだ苺をその場でジャムにしてくれるのよ。焼きたてのパンに付けて食べる苺ジャムは美味しかったな。リマは苺狩りとかで有名じゃない。そうそう、それからね。ランベックには佳穂が好きそうなアクセサリーショップとかもたくさんあったわよ。ねえねえ、今度またのんびりと一緒にリマに行こうよ」
「う、うん」
「なあに、陸翔先輩のこと?」
「・・・」
「大丈夫よ。先輩は。私ですら敵わないくらい強いんだから」
「そうね。リリアなら1個小隊くらいは1人で相手に出来そうだものね」
「それ、どういう意味?」
「女傑?」
「はいはい。どうせ私の恋人はこちらにいます訓練用のロボットですよぉ」
「・・・」
一瞬、会話が途切れて現実の世界に戻った私の心中を察したリリアは私の手を握った。
「佳穂・・・」
私は優しいリリアに凭れ掛かり、彼女の胸元に顔を埋めて濡らしていた。
昔からの親友にだけ見せられる姿だった。
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カチャ。
静まり返った部屋にドアの閉まった音が響き渡った。
私はそのまま奥へ進み、クローゼットルームの扉を開けて入ると、コットン製のレモンシフォン色にネイビーの細いラインで丸襟が飾られているお気に入りの可愛らしいパジャマに着替えた。もう一度部屋に戻り、写真を大切に胸に抱え、今度は白い基調のベッドルームへ行くとパチリと音をさせた。明かりの消えた部屋にベッドの脇にある閉められた薄手のカーテン越しに外灯の光が僅かに差し込んでいた。私はゆっくりとベッドに向かい、厚手のプレーンシェードを下ろすと端に腰を掛けて仰向けに横になった-(私を優しく受け入れ、ゆっくりと深く沈む)-毛布を掛け、両腕を毛布の上に出して写真を胸に抱くと目を閉じ-(私が発したものを包み込んで、それを心地よく私に返す)-寝返りを打ち枕元に置いてあるテーブルのスタンドを灯して写真をそこに置いた。
アカデミーでは広く知識を修めることを目的としていて、神学専攻の私にも専門外の分野が義務付けられている。私は履修した一般教養のひとつ、植物学の調査で緑豊かなリマの地に行って来た。調査と言っても名目で、私の本当の狙いは行方不明になった彼の痕跡を辿る為にドラットを訪れることだった。
リマ地方は植物の他に最高級の貴金属や鉱物資源に恵まれて、商業・工業の町で知られ、ロハン大陸全土に多大なる経済効果を巻き起こしている。こんな時でもなければ、ゆっくりとアクセサリーショップ巡りでもしてお買い物を楽しんでいただろう。
旅程は1週間程度で、リマでは幼少の頃より本家の姉より教わった知識の甲斐もあって、形ばかりの調査を半日で済ませると、その足で北国ドラットへと向かった。
コワールの死に行く原野から境界線を越えて、ドラットの消えた余韻の渓谷へと入り、鋭い海岸絶壁にあるゲイルの神殿へと赴いた。
神殿近くには司祭さまがいらっしゃったが、巨人族として知られているだけあって屈強の巨漢であった。しかし、彼は神に仕える身でありながら武装していて、この地の治安の悪さを物語っていた。でも、神学者志望とはいえ魔法学にも長けている陸翔が例え何かがあったにせよ容易くどうにかされることはない筈である。
私は陸翔の特徴を説明して彼が言っていたようにここに訪れたかどうかを尋ねた。
「イケメン?」
「はい!」
「あっはっは。そうか若い娘はイケメンが好きですか。そうだな、私も美女には弱いですからな」
「・・・」
「ふむ。確かにお嬢さんが言うような若い男が半月ほど前に尋ねて来ました。ここへは日々多くの者達が訪れるが異邦人は珍しい。たぶん間違いないでしょう」
「本当ですか!」
「その男は・・・」
「陸翔です」
「陸翔という男はゲイルに関することを調べていると言っておった」
「はい。はい、間違いありません」
陸翔からの最後の手紙にはドラットに着き、明日は神殿に行くつもりだと書かれてあったので、ドラットまでは無事に来ていた筈である。
「私に何でも構わないからゲイルについて教えて欲しいと言っていた」
「それから彼は?」
「私が教えたことはほとんど彼も知っていたようだったが、神殿へ行くと言った」
「それ以来、陸翔には会わなかったのですか?」
「いや、彼はもう一度ここに戻って来てから帰って行った」
「そうですか。ありがとうございました」
私は司祭さまにお礼を言うと神殿の方へと向かった。
常に号令を下すロハに反論することなく従うゲイル。ロハが創造したとされるヒューマンをゲイルが同様にしたジャイアントが-私自身もヒューマンの過ぎた正義は、少々、鼻のつくところがあったが-傲慢と嫌っているのは神々の関係とは相反する事実であった。
〝ジャイアントを守る偉大なる神は地を司る〟と言う。
地を司る神がこのような不毛の土地にジャイアントを創造したのかが全く私には理解出来ないことであった。何故なら、これでは人々に苦悩や試練ばかりを与えているようである。それにゲイルが授けた物には恩寵、加護、水晶、角笛、ペンダントが有るそうだが、どれも微弱な体力や魔力の回復効果しかないという。ゲイルは何を思いこの地にジャイアントを創造したのか。それとも彼はそれだけの力しか持ち合わせていなかったのだろうか。
巨大な六角形に刳り抜かれたブロックの石を組み上げた灯篭はヴェーナに住む私にとってはあまりにも味気ないデザインに感じられるほどで、台座部分に角のような物が何本か突き出しているのが唯一の飾りであった。それは神殿までの道を一直線に左右に等間隔で置かれていて、オレンジに燃え上がる炎は周囲に蒸気を放っていた。
(これがジャイアントの文化・・・)
巨大な入口が周囲に刳り貫かれて造られている神殿の中は天井が建物の上層部まで届いていて黄金色に輝いていた。不規則に湧く光球が天井へと舞い上がり、大きな入口から入り込んでくる外部の冷気を遮っているのか不思議と心地よい暖かさが伝わって来た。私は更に奥へと進んだ。

(これがゲイルなの?)
真正面には黄金の透明なカーテンのようなものが天井から垂れ下がっていて、その奥には巨大な石造が置かれていた。
親は子に似るのが当たり前で、自身と似たものを生み出すのは自然に思えるけど、あまりにも想像していたものと異なる体格の差に違和感を感じた。その石造は長身と言えば長身に見てとれるが、ジャイアントのように逞しく鍛え抜かれた巨躯ではなく、スリムに鍛え抜かれた体格であった。
(スタンプ?それとも強力な破壊力を持つというジャイアントの武器ポールアームの原型なの?)
巨大な柄の長いものを地面につき、真正面の彼方を見つめる姿がそこにはあった。
面長の顔は神経質そうで、頬がふっくらとしていて、頑固で融通の利かない高官を連想させる。気さくな性格の同性なら、こういった感じの人とでも直ぐに親しくなれそうだけど、女性だと少し神経を遣ってしまう印象を受けた。
私は周囲を見渡し、ふわりふわりと湧いては天井にシャボン玉のように消えていく光球を眺め続けた。
(陸翔、ここで貴方はどんな会話をしたの?)
穏やかで静かな運動はただ際限なく繰り返されるだけで、無音の世界は私に何の答えもくれなかった。
私はいたたまれない気持ちになって、石造に向かって心の中で叫んだ。
(貴方が神と言うなら、私の愛する陸翔の行方を教えて!)
問い掛けても返事のない静寂に立ち尽くし、ふわりふわりと舞い続ける物体を私はまた見詰め続けた。
暫くして、私は先程の司祭さまのいる方へと戻って行った。
「お嬢さん、少し温まっていきませんか?」
司祭さまはそう私に声を掛けると湯気が湧いてるコップを差し出した。
「これは?」
「ここで採れる微量な穀物から作った火酒です。女性でも飲み易いように甘くしておいたからどうかな」
「ありがとうございます」
ゆっくりと一口、口に含むと、それはリマで採れる特産の甘いジュースの香りがして、口当たりの良い飲み物であった。
「お嬢さんは何処から来たのかな?」
「ヴィア・マレアです」
「ほお、ずいぶんと遠くから来たのですね。先程の彼はお嬢さんの何かな?」
「・・・」
「立ち入ったことを聞いてしまいましたかな」
「いえ、彼、陸翔は私のフィアンセなんです。3週間ほど前にこちらに旅立ったのですけど、2、3日に1回は届く手紙が来なくなってしまって・・・」
「行方不明ということですね」
「ええ・・・」
「それはさぞ心配でしょう。良ければ私も人に聞いてあげましょうか?」
「ほ、本当ですか」
「聞くといっても私にもここですることがあるので、ここに訪れた人に聞いてみるくらいですが」
「いえ、それだけで十分です。是非、お願いします」
「そうですな。似顔絵を描いてみましょう」
「似顔絵?」
司祭さまは紙とペンを出し、すらすらとデッサンを始めた。
「わあ、お上手なんですね」
「いえいえ、ほんのお遊び程度ですよ。この土地は万年雪に閉ざされていて夜に出歩く風習がないものですから自然と身に付いた娯楽なんです」
「あ、目はもう少し優しい感じで・・・でも、凛々しくて精悍・・・眉毛は・・・」
「優しくて、精悍。ふむ、難しい注文ですね」
「す、すみません」
「好きな人のことは全て良く見えるものですよ」
「あ!こ、これを」
私はペンダントの中に仕舞い込んである小さな写真のことを思い出して見せた。
「少し宜しいかな」
司祭さまに手渡すと、私はデッサンを見つめながら、火酒を少しずつ口に含んで飲み込んだ。アルコール度の高いお酒は身体を一気に温める。気持ちが良くなった私はふと目を閉じてから青く澄み切った空を見つめた。すると、そこには笑顔で笑う陸翔の姿が浮かんでいるようで、ずっと空を見つめていた。
「出来ましたよ。大切な物なのでしょう。これはお返しします」
司祭さまが手渡すそれを私は両手を揃えて受け取ると再び首に付けた。
「絵が1枚出来たので同じ物を何枚か書いてみましょう。それをエトンにあるどこかのギルドの方にお願いをして町に貼り出してもらいましょう。そうすれば多くの人の目に止まりますから何かの情報が得られるかもしれません」
「まあ、素敵なアイデアですわ」
「今夜は私の家にお泊まりなさい。家内もいますから、火酒など野暮な物ではないちゃんとした物もお出し出来ますよ」
「宜しいのですか?」
「勿論、構いませんよ」
凍てつく翌日の早朝、私は親切な司祭さまに別れを告げてドラットを後にした。
「こんなに私を心配させて。帰って来たら“ギュッ!”としてくれなきゃ許さないんだから・・・」
私は軽く人差し指で写真の彼を小突いた。
陸翔は1ヶ月程前から神に関する課題の論文に取りかかっていた。
一般に主神オンはその存在そのものに難易度が高かった為に課題の題材としては敬遠され、蔵書や言い伝えが多く残されている下位神のロハやフロックス、女性であれば女神であるマレアを選んでいた。私も兄弟愛に溢れるが故の悲しい選択をした女性らしいマレアを選ぶであろうし、男であったとしたら、人の迷い、苦悩や弱さを垣間見せるフロックスを選ぶと思う。
しかし、この課題に彼はゲイルを選んでいた。
私がこの事を話すと彼は小さい子供がおもちゃでも与えられたかのように満面に笑みを浮かべて、はしゃぐように言った。
「俺は女じゃないからマレアやシルバの気持ちなんて分かるわけ無いし、傲慢なロハや迷いのあるフロックスは好みじゃないな。だから残るのはゲイルなのさ。寧ろあまり語り継がれていないゲイルはテーマとしては自分の見解や推論をより多く盛り込めて力を発揮できるから俺向きなんだよ」
「陸翔らしいわ」
「今度、ゲイルを崇めるジャイアントの地、ドラットに旅に行って来ようと思うんだ。佳穂も一緒に行くかい?」
「陸翔に会えないのは寂しいけど、私にもヴェーナでする事があるから待ってるわ」
「そうか。じゃ、土産をたくさん持って帰らないとな」
「うん、そうして」
私はお風呂上りの喉の渇きを潤したハーブティが空になったティセットをキッチンに片付けに行った。
食器を洗いながら頭に浮かぶのは彼を見送りに行った時の事だった。
その日、私達はヴェーナに立ち寄る船舶は主に農作物や魚介類を運搬する商船なので、乗客船に乗る為に早朝にヴェーナを出発してエルス港へと向かった。
郊外の橋を渡ると、彼は言った。
「まだ時間が早いから寄って行かないか?」
「ええ、良いわよ」
私達は何時も2人で過した歌う海辺にあるエメラルド色の小岩が飾られている場所に北を向いて並んで腰を掛けた。
それから耳に少し掛かってしまった髪をかきあげて、いつものようにそっと身体を右下に傾けて彼の胸元に耳を当てた。
「ねえ、ドラットと言っても広いけど、どの辺りに行くつもりなの?」
「そうだな、向こうの町に着いたら宿を取って、旨い物でも食べに行こうと思っている」
「まあ、まるで観光気分なのね」
「まずは旅の疲れを取ってからだな」
「北国には“ススキノ”って有名な男の人の遊び場があるって聞いたわよ。何の疲れだか怪しいわ」
私だけの嘘発見器・・・彼の鼓動が聞こえてくる。
トクン、トクン
(平穏だけど、陸翔はポーカーフェイスだから・・・)
「ごほん!神殿に行こうと思うんだ」
(その咳払いは何かしら?でも、あまり突っ込んでも薮蛇よね?)
「神殿?」
私は彼の顔を見上げて聞き返した。
「ああ、ゲイルが祭られていると言う神殿があるから、何かの取っ掛かりにならないかと思ってな」
「ふうん」
「石造でも拝めば何か思い浮かぶかもしれない」
「そんなものかしら?何だかいい加減ね」
「そうかな。ほら、人と話す時は“相手の顔を見て”って言うだろ?」
「それはそうだけど」
「顔を見れば何となく人格が分かるものさ」
「石造相手に?」
「そうさ」
私は尽きぬ悲しみの方角をぼんやりと眺めた。そこは淡いピンク色の光が地上より舞い上がり、誰が何時、何の為に創造したのか分からないエメラルドの岩々に見える浮遊物に吸い寄せられていて、まるでエネルギーの充電でもしているかのようであった。
「ねえ、エメラルドの効果って知ってる?」
「叡智を象徴する石だろ。記憶力や直観力を高めるかな」
「そうね、それもあるけど」
「まだあるのかい?」
「恋愛成就とか・・・」
「ふうん」
「浮気封じとか!」
「おいおい」
「ちゃんと目に焼き付けて行ってね」
「まあ、暫くはここの風景も見納めだな」
「浮気封じじゃないが、俺が帰ってきたら弓でも見に行かないか?」
「弓?」
「ああ、妹の鮎美が始めてな。上達したから見に来いって煩いんだよ」
「へえ、鮎美ちゃん、弓を始めたんだ」
「そうそう、元々、誰かさんに似てじゃじゃ馬なのに弓なんか始めて余計に気が強くなりそうだよ」
「そうかしら。精神統一に良いんじゃないの?」
「そうだろうか?」
「でも、誰かさんって誰?陸翔のお母さまってお淑やかだったわよね?」
「・・・・・・」
彼の目線はじっと私を見つめていた。
「私?」
「ああ、良い義姉妹になりそうだな」
私は少しむっとして彼の頬を軽く抓った。
「痛い、痛い。やっぱりな」
「もう」
「さて、そろそろ時間だな。港に行こう」
「うん」
彼と緩やかなカーブを描く海辺沿いの石畳の道をコツコツとヒールの音をさせながら腕を組んで歩いた。
エルス付近は粗悪な鉱物資源が微量に採れる場所であった。私には普通の石にしか見えないけど、採集をする姉が光り輝いて見えると言っていたのを不意に思い出した。
「なあ、その左手に持っている大きなバックはなんだい?さっきから気にはなっていたんだが。」
「これ?」
私はバッグを軽く持ち上げて答えた。
「港に着いてからのお楽しみよ」
「ふうん」
彼は怪訝そうに頷いた。
「私が髪形を変えても気が付かないのにそういうことには気が回るのね」
「え、髪型なんか変えたか?」
「変えてなんかいないわよ」
いけない事とは知りながら、つい苛めたくなってしまって出る束縛やからかう言葉を彼は何時も軽く受け流してくれる。
エルス港に着き早朝だった為か若干少なめの露店街を抜けて、見晴らしの良い港の外れで私達は立ち止まった。

「生水には気を付けるのよ」
「ああ」
「それから食事はちゃんと1日3食食べること。陸翔は没頭すると時間が経つのをすぐ忘れちゃうんだから」
「ああ」
「後、手紙もちゃんと出すこと」
「分かってるよ」
「それと・・・」
「おいおい、まだあるのかよ」
私はぶら下げていたバッグから布で包んだ箱を取り出して彼に渡した。
「これは?」
「お弁当よ」
「佳穂が?」
「そう!私だってお料理くらい出来るのよ」
「・・・」
「あ、でも・・・味は保障しないわよ」
「それにしてもずいぶん大きいじゃないか」
「ええ、向こうに着くまでの分はあるわ」
「ありがとう。助かるよ」
「陸翔がいない間に練習しとくね」
「ああ、よろしく頼む。じゃ、行って来る」
「うん、気を付けてね」
―神の意思の意味深さにも似た晴れた空の中をぷかぷかと緩やかに泳ぐ雲たちは、手を伸ばしても決して届かない遥か遠くに浮かんでいる。全ての恵みの源は、時折、人々に七色の手紙を届ける。が、純白の無邪気な雲たちはそれさえも遮ることがある―
(やっぱり、あの時に一緒に付いて行くべきだった)
今更悔やんでも仕方ない事を考えながら、食器棚にティセットを片付けた。
私は暗い夜道を一人歩きしていた。
見慣れた風景のバーガンディ色に染まった不揃いの石畳を敷き詰めた広い道。道の両脇にある土の上には野生の芝草が顔を出し、見上げれば、椰子の木の鮮やかな緑色の葉が一際目立っているはず。ここの椰子の実から取れるココナッツミルクは様々な食べ物に使われ、ヴェーナの人々に広く愛用されていた。
最近はこの大陸の各地を歩き回り、いろいろと調べまわり、今日はすっかり帰りが遅くなってしまった。既に、深夜遅い時刻だったので、月明かりに照らし出された木々の輪郭くらいしか見えなかったけど、それを頼りに家路を歩いていた。
町へ入る橋は夜になると橙色に発光して、行き交う人々の道案内をしていた。
橋を渡り、急な坂道を登りきったところにある海に面した自然の高台のヴェーナに私の家はある。
坂道にある外灯は濃緑色の卵形の葉をつけた華奢な高木を模倣していて、ヴェーナを首都とする大陸の南に位置するヴィア・マレアのあちこちで見かけるが、天辺の葉には淡いピンク色に発光してる球体が付いていて、巨大なチューリップを連想させた。

私の背丈の4倍はある薄茶色の塀に囲まれた門を通り抜けて街へ入ると、錆浅葱や支子色の幾何学模様に茜色のアクセントが付けられた地面をお店の黄や緑、ピンク色に輝く看板が照らしていた。繁華街を通り過ぎ、人工的に作り出された薄緑の落葉を仰ぎ、小阪を上るとそこには王宮がある。
私は王宮の傍にある陸側の家に着いた。
金色で縁取られた扉の上には私の帰りを待って外灯が灯されていた。
扉を開け、家の中に入ると、家の者は皆寝ているのか静まり返っていた。
私は外套を脱ぎ、二階にある自分の部屋に入った。
「ただいま、陸翔」
部屋の中は桜色の壁と同じ本棚とアンティークの机が置いてあるだけで、奥にあるクローゼットルームに外套をしまい、机の上にあるクリスタルの写真立てに私と一緒に写っている男性に話しかけた。
「行って来たよ。貴方が言っていたドラットに・・・」
遠い北国の旅からの帰宅だった。
「お話しすることがあるけど、シャワーを浴びてさっぱりしてくるから待っててね」
私は着替えを持ち、一階の大きな窓のあるバスルームで汚れた身体をシャンプーで洗ってから、腕を組み、足を伸ばして、暗がりに見える思い出の場所の方角を見つめながら浴槽に浸かった。
身体が温まってくると、目を閉じて、昔の出来事を思い出していた。
私はアカデミーの高等部を卒業すると、大学に進学した。専攻は神学。神さまを信仰している訳ではなく、その存在に興味があった。
私が履修した講義に彼も出席していて、偶々、隣に座った彼は講義を聞きながら、何やらブツブツと呟いていた。私は教授の話が聞こえないと、横目で彼に注意の視線を幾度か向けた。でも、一向に呟きを止めない彼の方を振り向きながら抗議の言葉を吐いた。
「あの・・・う・・・」
(えっ?)
振り向き終わった時に、彼の顔は目前にあり、一瞬、私と彼の唇がぶつかった。
私は目が丸くなり、顔を赤らめて、心臓の鼓動が聞こえる音がした。
ドクン、ドクン。
(こ、これって、キスよね?)
咄嗟に向き直り、講義に集中しようと教授のいる方を見る。
ドク、ドク、ドク。
(誰かに見られた?)
私の心臓の鼓動は更に早さを増し、既に頭の中はパニックだった。
ドクドクドク・・・。
(別に・・・キスくらい・・・初めてじゃあるまいし・・・ただの事故じゃない)
「何か用?」
彼は何事も無かったかのように聞き返してきた。
「な、何でもありません」
「あ、そう」
(平手打ちするべきだった?)
(事故なのにそれは変よね)
(荷物を纏めて退出するべきだった?)
(ここに何しに来たのか分からないわ)
(道で肩がぶつかったのと同じだから謝るべきだった?)
(唇を奪われたのに?)
突然のハプニングに私の反応すべきだった行動が頭の中をぐるぐると駆け回った。
結局、ずっと心臓の鼓動は激しく鳴り続け、教授の話は何も耳に入って来なかった。
講義が終わり、私が退室しようとした時に彼が話しかけてきた。
「ねえ、きみ。講義、聴いてなかっただろ?」
(何で、私のことが分かるの?)
「ほら、ずっと、上の空みたいだったじゃない?」
(貴方のせいです!)
「良かったら教えてあげるから、俺に付き合わない?」
(新手のナンパですか?)
私が唖然としていると、彼は私の腕を引っ張ってそそくさと歩き出した。
何処まで行くのかと思ったら、街の外の歌う海辺まで連れて行かれてしまった。そこは様々な人達で賑わうエルスの港に向かう道沿いにある小高い丘で、ヴェーナの街を一望することが出来た。辺りには芝草が生えていて、静かな場所だった。
「俺、ここが好きなんだよね」
(別に貴方の好みなんか聞いてないです!)
「じゃ、講義を始めるよ」
彼の説明は丁寧で、ひとつの事にも多方面からの見解や解釈を取り混ぜているにも関わらず、まるで絵本でも読んでもらっているかのように凄く面白く理解し易かった。
彼は2つ上の同じ専攻の先輩。銀髪のショートカットに細面で端正な顔立ち。目は鮮やかなスカイブルー。一見、華奢に見えるけど、筋肉は十分発達していて力は強い方だった。どちらかと言うと、羨ましがられる彼氏のタイプだ。
私達は一緒に講義を受けるようになり、そのうち付き合い始めた。
後で、2学年上の彼が何で私と同じ講義を受けていたかを聞くとこう答えた。
「うっかり、単位をとるのを忘れたのさ」
頭が良いのに少し間が抜けてる彼に私は好感を持った。
これが私と彼の出逢いだった。
私はバスルームからあがると、着替えを済ませて、キッチンに向かった。
お湯を沸かして、ハーブティを枝や葉の模様の中に鳥がデザインされているティーポットに入れると、それとお揃いのカップと一緒に木製のトレイに載せて、再び、自室に上がった。
机の前に座ると、ハーブティをカップに注ぎ、ティーローズのシャンプーの香りがする髪を撫でながら、写真の中の彼を見つめた。
私達は付き合い始めて一年余り。周囲の人達にも公認の仲だった。
彼との講義の合間に出掛かるデートは初めて連れて行かれた歌う海辺が定番だった。二人でヴェーナの街を眺めながら、芝生の上に座り、お茶を飲んだり、昼食をしたり、いろいろなお話しもした。
私は彼の鼓動を聞くのが好きだった。
彼の胸にそっと耳を当て、彼の鼓動を聞いていると、子供が母親の鼓動を聞くように私も安心した。そして、彼は優しく私の肩を抱いてくれた。
「私ね、記録保持者なんだよ」
何時も私よりも賢くて、何をやっても私より上手に出来る陸翔に彼の優しい腕の中で、子供の頃に行ったことのあるダンベルガワンで参加した大会のことを自慢した。
「何の?」
「かけっこのよ」
「・・・」
「数ヶ所を走って回るスタンプラリーみたいの。タイムトライアルで商品とかも貰ったのよ」
「商品?」
「ガラス玉よ。好タイムだと銅の玉とかも貰えるの。綺麗だったな」
「何だ、そんな物か」
「だって、子供の大会ですもの。でも、たくさん集めるとビキニとか貰えたのよ」
「俺も参加してみようかな?」
「陸翔がビキニを貰ってどうするの?」
「・・・」
ドクン、ドクン。
「あ、今、ヘンな想像したでしょ?」
「・・・」
私は上を向いて彼の目を見つめると、目を閉じてお強請りをした。
彼は私を強く抱きしめて、優しくキスをしてくれた。
私もそれに答えて、彼の腰に手を回して、唇を押し返した。
暫くして、満足すると、また、彼の胸に耳を当てる。
彼の話す言葉と共に私の髪にかかる吐息を感じながら、ドクン、ドクンと音がする。
私のことを忘れないように、彼に魔法の香りのシャンプーを嗅がせながら・・・。
私は殻になったカップをお皿に戻すと、溜め息交じりで呟いた。
「陸翔、今、貴方は何処にいるの?」