陸翔は1ヶ月程前から神に関する課題の論文に取りかかっていた。
一般に主神オンはその存在そのものに難易度が高かった為に課題の題材としては敬遠され、蔵書や言い伝えが多く残されている下位神のロハやフロックス、女性であれば女神であるマレアを選んでいた。私も兄弟愛に溢れるが故の悲しい選択をした女性らしいマレアを選ぶであろうし、男であったとしたら、人の迷い、苦悩や弱さを垣間見せるフロックスを選ぶと思う。
しかし、この課題に彼はゲイルを選んでいた。
私がこの事を話すと彼は小さい子供がおもちゃでも与えられたかのように満面に笑みを浮かべて、はしゃぐように言った。
「俺は女じゃないからマレアやシルバの気持ちなんて分かるわけ無いし、傲慢なロハや迷いのあるフロックスは好みじゃないな。だから残るのはゲイルなのさ。寧ろあまり語り継がれていないゲイルはテーマとしては自分の見解や推論をより多く盛り込めて力を発揮できるから俺向きなんだよ」
「陸翔らしいわ」
「今度、ゲイルを崇めるジャイアントの地、ドラットに旅に行って来ようと思うんだ。佳穂も一緒に行くかい?」
「陸翔に会えないのは寂しいけど、私にもヴェーナでする事があるから待ってるわ」
「そうか。じゃ、土産をたくさん持って帰らないとな」
「うん、そうして」
私はお風呂上りの喉の渇きを潤したハーブティが空になったティセットをキッチンに片付けに行った。
食器を洗いながら頭に浮かぶのは彼を見送りに行った時の事だった。
その日、私達はヴェーナに立ち寄る船舶は主に農作物や魚介類を運搬する商船なので、乗客船に乗る為に早朝にヴェーナを出発してエルス港へと向かった。
郊外の橋を渡ると、彼は言った。
「まだ時間が早いから寄って行かないか?」
「ええ、良いわよ」
私達は何時も2人で過した歌う海辺にあるエメラルド色の小岩が飾られている場所に北を向いて並んで腰を掛けた。
それから耳に少し掛かってしまった髪をかきあげて、いつものようにそっと身体を右下に傾けて彼の胸元に耳を当てた。
「ねえ、ドラットと言っても広いけど、どの辺りに行くつもりなの?」
「そうだな、向こうの町に着いたら宿を取って、旨い物でも食べに行こうと思っている」
「まあ、まるで観光気分なのね」
「まずは旅の疲れを取ってからだな」
「北国には“ススキノ”って有名な男の人の遊び場があるって聞いたわよ。何の疲れだか怪しいわ」
私だけの嘘発見器・・・彼の鼓動が聞こえてくる。
トクン、トクン
(平穏だけど、陸翔はポーカーフェイスだから・・・)
「ごほん!神殿に行こうと思うんだ」
(その咳払いは何かしら?でも、あまり突っ込んでも薮蛇よね?)
「神殿?」
私は彼の顔を見上げて聞き返した。
「ああ、ゲイルが祭られていると言う神殿があるから、何かの取っ掛かりにならないかと思ってな」
「ふうん」
「石造でも拝めば何か思い浮かぶかもしれない」
「そんなものかしら?何だかいい加減ね」
「そうかな。ほら、人と話す時は“相手の顔を見て”って言うだろ?」
「それはそうだけど」
「顔を見れば何となく人格が分かるものさ」
「石造相手に?」
「そうさ」
私は尽きぬ悲しみの方角をぼんやりと眺めた。そこは淡いピンク色の光が地上より舞い上がり、誰が何時、何の為に創造したのか分からないエメラルドの岩々に見える浮遊物に吸い寄せられていて、まるでエネルギーの充電でもしているかのようであった。
「ねえ、エメラルドの効果って知ってる?」
「叡智を象徴する石だろ。記憶力や直観力を高めるかな」
「そうね、それもあるけど」
「まだあるのかい?」
「恋愛成就とか・・・」
「ふうん」
「浮気封じとか!」
「おいおい」
「ちゃんと目に焼き付けて行ってね」
「まあ、暫くはここの風景も見納めだな」
「浮気封じじゃないが、俺が帰ってきたら弓でも見に行かないか?」
「弓?」
「ああ、妹の鮎美が始めてな。上達したから見に来いって煩いんだよ」
「へえ、鮎美ちゃん、弓を始めたんだ」
「そうそう、元々、誰かさんに似てじゃじゃ馬なのに弓なんか始めて余計に気が強くなりそうだよ」
「そうかしら。精神統一に良いんじゃないの?」
「そうだろうか?」
「でも、誰かさんって誰?陸翔のお母さまってお淑やかだったわよね?」
「・・・・・・」
彼の目線はじっと私を見つめていた。
「私?」
「ああ、良い義姉妹になりそうだな」
私は少しむっとして彼の頬を軽く抓った。
「痛い、痛い。やっぱりな」
「もう」
「さて、そろそろ時間だな。港に行こう」
「うん」
彼と緩やかなカーブを描く海辺沿いの石畳の道をコツコツとヒールの音をさせながら腕を組んで歩いた。
エルス付近は粗悪な鉱物資源が微量に採れる場所であった。私には普通の石にしか見えないけど、採集をする姉が光り輝いて見えると言っていたのを不意に思い出した。
「なあ、その左手に持っている大きなバックはなんだい?さっきから気にはなっていたんだが。」
「これ?」
私はバッグを軽く持ち上げて答えた。
「港に着いてからのお楽しみよ」
「ふうん」
彼は怪訝そうに頷いた。
「私が髪形を変えても気が付かないのにそういうことには気が回るのね」
「え、髪型なんか変えたか?」
「変えてなんかいないわよ」
いけない事とは知りながら、つい苛めたくなってしまって出る束縛やからかう言葉を彼は何時も軽く受け流してくれる。
エルス港に着き早朝だった為か若干少なめの露店街を抜けて、見晴らしの良い港の外れで私達は立ち止まった。

「生水には気を付けるのよ」
「ああ」
「それから食事はちゃんと1日3食食べること。陸翔は没頭すると時間が経つのをすぐ忘れちゃうんだから」
「ああ」
「後、手紙もちゃんと出すこと」
「分かってるよ」
「それと・・・」
「おいおい、まだあるのかよ」
私はぶら下げていたバッグから布で包んだ箱を取り出して彼に渡した。
「これは?」
「お弁当よ」
「佳穂が?」
「そう!私だってお料理くらい出来るのよ」
「・・・」
「あ、でも・・・味は保障しないわよ」
「それにしてもずいぶん大きいじゃないか」
「ええ、向こうに着くまでの分はあるわ」
「ありがとう。助かるよ」
「陸翔がいない間に練習しとくね」
「ああ、よろしく頼む。じゃ、行って来る」
「うん、気を付けてね」
―神の意思の意味深さにも似た晴れた空の中をぷかぷかと緩やかに泳ぐ雲たちは、手を伸ばしても決して届かない遥か遠くに浮かんでいる。全ての恵みの源は、時折、人々に七色の手紙を届ける。が、純白の無邪気な雲たちはそれさえも遮ることがある―
(やっぱり、あの時に一緒に付いて行くべきだった)
今更悔やんでも仕方ない事を考えながら、食器棚にティセットを片付けた。